メフィスト・フェレス卿には、父親が同一という意味での、兄弟が何人かいる。 それらのほとんどは故郷であるところの虚無界でおそらく元気でやっていることであろうと、いささか投げやりに、メフィストは思う。 実際、彼の旺盛な好奇心ととどまるところをしらぬ興味関心はここ数百年物質界のみに注がれており、 その百分の一だって虚無界に割いてやる気も余裕も彼にはないのであった。 物質界には、今のところ二人の弟がいる。つい最近覚醒したばかりの悪魔と人間とのあいのこである末っ子と、 つい最近虚無界からやってきたばかりの正真正銘の悪魔である弟、の二人である。前者は未だ尻尾の取れていない蛙そのものであり、 後者は本能を特化させて他を劣化させたような愚か者であった。前者には胡散臭く思われており後者には懐かれている自覚がメフィストにはあった。 後者の、その、つまるところ、クレイジーなほうの弟、であるアマイモンはといえば先ほどから革張りの長椅子に腹ばいで、 毒々しい紫色をした棒付き飴をむぐむぐと至極まじめにほおばっている(数分前に請われてメフィストが与えた物である)。 メフィストの眼前で両の骨と筋でぎすぎすの足がぱたぱたと規則的に揺れ、そのいかにもないたけなさ(と言えば聞こえはよい)はメフィストの疲労感を助長した。 兄の胡乱な目線に気付いたのか、ぶどぉあじなんですよ、と聞いてもいないことをじつに気の抜けた声でいかにもどうでもよさそうにつぶやいて、 唐突に、がりっと音をたててその着色料たっぷりの飴玉をかみ砕いた。室内にはしばらく飴玉が粉砕されるガリガリガリという無感動な、 しかしいささかやかましい音が響き、そしてその後どうにも勘弁ならぬといった具合の溜息がメフィストの喉元から漏れた。 はーぁやれやれ、といった具合に。アマイモンが目線をあげる。 「どうなさったのですかあにうえ」 「・・・・・・・・・・・なにも」 どうなさったもこうなさったもございません。 しかしながらこれらの胸中のわだかまりを言語でもってこの頭のネジの不在が疑われる弟に6割程度でも伝えられる自信がメフィストにはなかった。 ことさらになかった。アマイモンは数秒間動作を停止した後、そうですか、とこれもまたなんとも心ここに非ずの体で応えて、 視線を手中にある先ほどまで飴がくっついていた棒っきれに戻した。メフィストの疲労感たっぷりの目線の先で弟は名残惜しそうに (といっても表情はほとんどまったく寸分も変化しない)その棒を咥え、がしがしと噛みだした。なんてがめつい子なのでしょう! メフィストはあきれを通り越してなにやら庇護欲に類似したなにかを自身のうちに見いだした。あほな子ほどかわいいと人間はいうが、 とメフィストはどうにも悪魔らしからぬ自身を顧みた。そして続けて、ここで、ぽん、と飴玉を一つ二つ三つ、或いは五つ出してやることは実にたやすいが、と思案する。 それではこの頭のゆるい弟の教育にはならないだろう、と。なによりそれではちっともおもしろくもないだろう、というのが本音であるところではあった。 メフィストは、ぽん、と軽快な音をたてて、フィッシャーピンクとシアンがぐるぐると渦をまく棒付き飴を出した。 実に敏捷な動作でもってその飴へと注意を向けるアマイモンに頭を痛めつつ、メフィストはにっこりと(或いはにやり、と)微笑んでみせた。 「この飴が欲しいだろう?」 「ええとても、すごく」 「だが」メフィストは飴の棒を弟から遠ざける「ただでやることはできない」 「なんと」 ご無体な、声色はそのままに、まろ眉が極々僅かしゅんと下がった(ように見えないでもない)。 「考えてもみろ」飴を指揮棒に模して軽く振る 「お前はたいてい部屋で寝そべっているかその辺を徘徊しているか私の私物を破壊しているかでちっとも私の役に立ちはしない。 それにもかかわらず私はお前の衣食住を保障しあまつさえ多量の菓子を毎日毎日与えているのだ。これはおかしい。 物質界では何かを得るためにはそれ相応の犠牲を払わなくてはならないのだ」 アーユーオーケー?びしぃと飴を眼前に突きつけると弟は物欲しそうに唇を尖らせた。 「では」小さく首を傾ぐ「何をご所望で」 はて。 何を言いつけようか、と本末転倒なことに気づき、メフィストはしばし逡巡した。 弟のぱかーんと開ききった瞳孔を眺め、些末なことからあらぬことまでずらり並べて思案し、結局飴ひとつであるし 「ここに来て居住まいを正せ」とメフィストのはべる長椅子の空いたスペースをぽんぽんと叩くという当たり障りのない路線を選択するにとどめた。 アマイモンは別段なにも考えていないような顔して(おそらくほんとうになにも思考していない)お安いご用で、 とティーテーブルを行儀悪く跨いで兄の左隣に兄の方を向いてちょこんと正座してみせた。ジャパニーズセイザですよ兄上、とも言った。 しゃべると咥えた棒が上下するのがなんとも間抜けである。メフィストが渦巻き飴をその間抜けな顔に近づけると口をぱかりと開けてみせた。 口を開くと同時にそこかしこが歯型に変形したプラスチックの棒はタイル貼りの床に落下して、からりととりとめのない音をたてた。 当然アマイモンはその哀れな棒切れの存在などまったく意に介さず、メフィスト(の手中の飴)に全神経を集中させている。 均整に並んだいやに並びの良い歯列と突出した鋭利な犬歯、その奥のぬるりと湿った舌を見て、メフィストはなんだかどうにもむらっとした。 むらっとした事に対して驚きと落胆と罪悪を感じつつ、しかし表情にはつゆも出さず、メフィストはアマイモンのぱっかり開いた口と目を見つめる。 暫し眺め回して満足したメフィストが、よし、と言うとアマイモンは忠犬よろしくぱくり、と扁平な飴に齧り付いてささやかながらしあわせそうな (少なくともメフィストにはそう見受けられた)顔をした。 おいしいですあにうえ、といった類のことをふがふがとしながらもつぶやいた。 きっと今この弟の脳内は甘味一色なのであろうとメフィストはぼんやりとやるせなくなった。 やるせなくなった後になんというか愛しさのようなものが胸にみちみちて、正直この感覚は気持ち悪いなあと思った。 (これは、)(いわゆる庇護欲というやつなのであろうか)(しかしながら)(悪魔に庇護欲というのもけったいな話で) そうしてなだらかに傾斜してゆく思考の中で、メフィストはメフィストの悪魔らしからぬ胸中のうちに、次はお手でもさせてみようかしらん、などと、本音と建て前がゆるく混ざり合っていく感覚をみとめた。 [エウスタキオ管の午睡]
11.06.20 |