メフィスト=フェレス卿は自他共に認める極端なエゴイストのエピキュリアンで策略家でしかも性根の悪い愉快犯でその上正真正銘の悪魔でさえあったが、 実の弟の、ニホンブンカがしりたいですあにうえ、という舌ったらずなお強請りを無礙にできない程度の良心(あるいはそれらしきもの)は懐の内に持ち合わせてはいた。 たとい脳みそが液状化しているとしか思えぬ奇矯な振る舞いに出ることがしばしばである弟だとしてもかわいい弟はやはりかわいい弟に変わりないのであった。 そのいささか情緒に難のあるかわいい弟であるアマイモンのかわいいお願いをかなえるべく、 メフィストは愛車であるところのピンクのベンツを郊外に30分ほど走らせたところにあるぼちぼち名の知れたつつじ園に足を運んでいた。 梅雨も半ばといったところで、庭園のつつじはまさに盛りを迎えていた。 赤、深紅、紅色、深紅、潤朱、紅梅、藤色、或いは生成、といった百花繚乱、色とりどりのつつじと、 その間を取りなすような濃緑色のカイズカイブキなどのよく植栽された、楕円系のむくむくとした株がみっしりとなだらかな斜面を濃密に埋めている。 昨晩から未明にかけて降った霧のような雨の露がそこかしこを湿らせて、生い茂る緑色や赤色を鮮明に活き活きとさせている。 斜面の裾には広くも狭くもない池があり、小振りな朱色の桟橋が架かっている。波のない水面に、薄曇りの灰色と、あでやかな花々が映っていた。 あたりには湿った土と草の匂いが漂っており、メフィストの鼻の奥を絶えずじわりと刺激した。 平日の白昼、それもいまにもぶり返しそうに沈む空模様では観覧客も見あたらず、ほとんど貸し切りのような有様であった。 もっとも、とメフィストは自分の五歩ほど先をてくてくとおぼつかなくあるく弟を見て思う。 この、何をしでかすのか皆目見当の付かぬ弟のことを思えば今のこの状況は一般観覧客にも、自分の胃にも、たいそう優しいものであると。 だいいち見た目からして浮いている、とメフィストは自分が見繕った衣装であるということを易々と棚に上げて憮然とした。 そういうメフィストは普段の奇天烈なめしものを本人なりに自重したのか、錆浅葱と鼠藍の縞模様の着流しに百入茶の羽織と黒紅鼻緒の雪駄、 としみじみ日本庭園に溶け込むことに成功している、つもりでいるが、実際の所ガイジンの和装はたいそう人目をひくもので百歩譲ったところで浮かれた観光客にしか見えなかった。 しかしながら今現在ここには価値判断の発狂した弟とメフィスト本人しかいないがため、その真実はついぞ誰に認識されることもないのであった。 メフィストの見るともなしな視線の先で、アマイモンはおおむねいつも通りの本心の透けぬぼんやり顔で花を見るともなしに眺め、 時折、池に石を投げいれてみたりだとか垣根に顔を埋めてみたりだとかその場でくるくると回ってみたりだとか、おおむねいつも通りの奇行に明け暮れている。 何のために連れてきたのかわかったものでない、とメフィストは怒りを通り越してあきれ、そしてそのあきれすら超越してどこか清々しい感慨を心中に見出した。 「アマイモン、お前は何をしにここにきたのだ」 「ニホンブンカを解するために兄上に連れてきてもらったのです」 エグザクトリィ、とメフィストは頷いた、実に重々しく。そして続けた、それなのにもかかわらず、と。 「それなのにもかかわらず」メフィストは再度回りだした弟にひとさし指をびしぃと突きつけた「お前はさっきから何をしている」 「花は見ていました、あと、庭も」 くるくると自転しながら悪びれなくあっけらかんと答えるものだからメフィストは思わず弟の左頬をつまんで引っ張った。 ひやりとした頬が伸びる。いひゃいれすあにふへー、と大して痛くもなさそうに泰然としてつぶやくものだから、メフィストはまったく面白くないものだと興ざめして、 さっさと白色のほっぺたを開放してやった。すると、アマイモンは兄の御言葉に耳を傾けることにしたのか、はたまた回り続けることに飽きたのか、 回転することを止めておとなしく、ぴたりと直立不動の体をとった。十中八九後者である。 メフィストはよっぽど通じもしない皮肉のひとつでも吐いてやりたい気持ちでいっぱいではあったが腹を痛めるのは結局自分だけであるから、 と幾分理性的にしばし閉口し、代わりにちいさく溜息をついた。 「お前のそれは見ていたのではなく視界に入れていただけだ」 「同じことではないのですか」 なんという。メフィストは物質界と虚無界とでの認識のギャップをひしひしと感じ、気が遠くなった。 「端的にいうと」冗長にいうと弟は思考を放棄するのだ「それは違う、似ているようでまったく違うのだ」 「まったくわかりません」 間髪入れずに弟は間延びした声で断定した。りかいふのうです、とさえのたまった。あまつさえ、なにがどうちがうのかもっとわかりやすくお願いします、 などと一丁前に注文を付けるものだからメフィストは再びその頬(今度は右にした)をつねった。むぎゅうと不健康なかんばせがやや不細工に伸びて、 メフィストはまたしてもげんなりして指を離した。 「ただ目に映っているだけでは何にもならない、見て、きれいだとか、美しいだとか、赤いだとか白いだとか、もっと眺めていたいだとか、 それ以前にまず興味深いだとか、そういったことを自然と考えることがひとまず人間らしさとして肝要だ」具体例を盛り込むことも忘れない 「お前は飴玉を見たときおいしそうだとかそういったことを考えるだろう。それはただ視界に入っているときには感じない情操であろう」 「なるほど」 「わかればよい」 本当にわかっているかは甚だ疑問ではあったがこの際その点は保留しようとメフィストは明後日の方向に目をやった。 「梅に始まり桜、これらツツジ、紫陽花、萩、はたまた紅葉、椿、山紫水明、花鳥風月、とかく日本人は往々にして草花を愛でる民族なのだよ」 どうだ素晴らしかろう、と胸を張るメフィストに気おされてか、次につねられる個所を懸念してか、三度目のなんとやらを気にしてか、はたまたまったく何も考えずにか、 いずれにせよ、アマイモンはどれどれと手近な株に近づいてその冴え冴えとした花々の群をまじまじと眺める。 弟の、蝋のつくりものめいた顔立ちと、目にも鮮やかな花々は案外に絵になるとメフィストは思う。だが、黙っていれば、と脳内で補足することも忘れない。 ずうっと黙っていれば、と途中まで考えて、でもそれじゃあいかにもつまらない、とメフィストは蛇足歩行する思考を打ち切った。 「感想は?」 それで結局のところおまえはなにを感じ得たのだ。と水を向けると、弟はしばしばと大きな目をまたたいて、ちいさく親指の爪を噛んだ。 ええ、まあ、と口の中でなにかをもごつかせている。そうですね、ああ、そうだな、 「まあ、なんというか、」 おいしそうです。と弟は心ここにあらずに応えた。 そして、華奢な、しかし鋭利な爪先を備えた、両の五指がおもむろに花を鷲掴みにする。 メフィストが、あ、とも、う、ともいえず茫然とする最中、ぷちぷちぷちと小さな、じつにはかない音をたてて赤色の桃色の薄紅色の花弁らは引きちぎられ、 蹂躙され、そしてそのまま無造作に弟のぱくりと開いた口内へと押しこめられた。アマイモンはそのまま、それらの色とりどりの花びらをもぐもぐもぐと咀嚼する。 「あまい、けれども」むしゃむしゃむしゃむしゃ「見た目ほどは、おいしくないですね」 野菜みたいな味がします、といたく現実的なことさえつぶやいて、ごくりと喉をならす。 しかし花を毟る手を一向に休める兆しがない。我に返ったメフィストは慌てて弟の、花と口を行ったり来たりする手を掴んで静止を試みた。 握った両の手首はやはりひやりと冷たくまるで生きているものの温度が感じられなかった。 「なぜ食べる、私は花を愛でろといったのだ」 弟は不思議そうな顔して兄の顔をまじまじと眺め、次いで兄が掴んでいる自身の花びらまみれの手を眺めた。 「めでるとはつまるところあいするということなのでしょう」 あいじょうというやつがボクにはよくわからないのでとりあえず食べてみました。 罪悪の一片も覗かせず小さく首を傾いだアマイモンの口の端には食べ損ねの花弁がくっついていて、メフィストはどうにも説教する気勢をそがれた。 青白い顔色に深い赤色がやけに映える。それ以上花を貪ることのないよう、ショッキングピンクの棒付き飴を弟の口に、いつもより少しばかり乱暴に、突っ込んでやった。 お前にはそっちのほうがお似合いだ、とも言ってやった。 「きれい、という感覚がボクにはうまく理解ができません」アマイモンは口の中の飴をもごつかせる「それは、おいしい、よりも素敵な感覚なのでしょうか」 メフィストは持ってもいない匙をどこか遠くへ投げ捨てたいような思いに駆られた。 アマイモンは手のひらに貼り付いた花弁を僅かばかりの感慨すら表さずに地面へと払い落としていた。 水たまりに落ちて泥まみれになった赤や緋のそれらに弟はちらりとも目線をやることはなかった。 メフィスト=フェレス卿は自他共に認める極端なエゴイストのエピキュリアンで策略家でしかも性根の悪い愉快犯でその上正真正銘の悪魔でさえあったが、 花を愛でたりかわいい弟を素直にかわいいと思えたりする感性を持ち合わせていたし、非常識な弟に辟易したりする程度の常識さえ持ち合わせていたし、しばしば、 当分虚無界には帰りたくないものだ、とだって思いもする。 「お前はいささか即物的すぎるのだよ」 「即物的でない悪魔がどこにいますか」 それもそうかとメフィストは緑の匂いに混じる、虚無界の硫黄に濁った空気の名残を鼻先に感じた。 [アフター・ビューティフルワールド]
11.06.20 |