「ごきげんよう奥村の双子」

 冷房もなくひどく蒸した寮屋の、開け放した窓枠に、それこそ気配もなく、忽然と、その少年の形をした宿敵たる悪魔は現れた。
奥村の双子の弟は今しがた読んでいたハードカバーをぱたん、とたたむと同時に、予備動作なしに投擲、 回転椅子を蹴倒してバックステップで距離をとった。 他方、兄のほうはかけ布団の中からわたわたと退魔の剣を手繰り寄せて、そしてその焦りを隠しきることもできず ベットから転がり落ちた。当の悪魔はあくまで悠然と、飛んできたハードカバーを首を傾いでかわし、 転んで這いつくばる奥村の兄をぼんやり見るともなしに眺めていた。 そして緊張感でぴりつく室内にいやに弛緩した声で再度挨拶の文言を繰り返した、ごきげんようおくむらのふたご、と。



「ボクはいつもみたいに奥村燐と遊びに来たわけではありません」
 兄上に怒られてしまいます。と悪魔はいう。
「多寡、思いついたことがあったので馳せ参じた次第なのです」
 ともいった。



「ボクはあなたたちの兄上なのです」
 さてはて何を言い出すのであろうかと十分に距離を置きながら臨戦態勢を崩さぬ双子を見下ろしつつ、悪魔の少年はそういって小さく胸を張って見せた。燐と雪男はしばし顔を見合わせて、それでもなんらはかばかしい解答をお互いの見慣れた表情のうちに見出すことができず、そろって、 威張るポーズを崩さぬ悪魔に目線を戻した。アマイモンは仕方ないなあと続ける。
「ボクはボクの兄上を兄上と呼んでそれなりに尊敬しそれなりに尽くしています。 兄上は自分勝手な方ですからしばしばボクは無茶なお願いをされたりだとか、ないがしろにされたりだとかもしますがそれはそれとして、 ボクは兄上に敬意を払っています。数百年間の音信不通期を経ても、電話一本ではるばる虚無界から物質界にだって来ちゃいます」
たしかにそれは大変だ、考えてみれば悪魔のくせに立派な弟ぶりであると双子はうんうん頷く。 アマイモンもうんうんと頷いて、続ける、それなのにもかかわらず、と。
「それなのにもかかわらずあなたたちは兄上であるボクにちっとも敬意を表さない。 あまつさえ会えば会ったでワイルド全集なんてたいそうなもの投げてくる始末です。なんて嘆かわしいんでしょう」
 ということに今朝気付いていてもたってもいられなくなったのです、とアマイモンは口を尖らせた。 双子は一瞬だけ閉口して、それから思いっ切り眉根を寄せた。主に、弟のほうが。
「いっつもいっつも出会いがしらに兄さんを殺さんばかりに殴りつけるようなひとに言われたかないです」
「そうだそうだ」
「いつあなたが僕らに敬わられるようなことをしたっていうんですか。 フェレス卿につくしているといいますがむしろどちらかといえばべったりと迷惑をかけきっているように見受けられるときが多々ありますよ」
「もっともだ」
「だいたい祓魔をなわりとしている僕がどうしてあなたのような悪魔のなかの悪魔を尊敬しますか、 悪魔なんてだいきらいですよええすごく」
「いいぞ雪男もっといえ」
「それに、兄さんだけでも手一杯なのにそれ以上手のかかる兄さんなんて御免被ります」
「そうだそうだって雪男それはどういう意味だこのやろう」
 耳を尖らせてぷくぷくと癇癪を起す双子の兄と何事もない顔して今日の夕飯はオムライスがいいななどと思案する双子の弟を尻目に、 アマイモンは悠々とその怒っている方の双子の勉強机の上に正座した。
「ボクのありもしない人徳とか道徳とかそういったことを気にしたって仕様がないでしょう。要不要に関わらず、事実としてボクはあなたたちと同じ父親がいて、しかもあなたたちよりいくぶん早く生まれたのです。ニホンジンは年長者を尊ぶ文化を持っております、それだけで十分では」
 それにあなたがいやならボクは奥村燐だけでも構わないですべつに、と雪男から燐へと目線を移す。
「奥村燐、いちおうあなたはこの奥村雪男の兄ですからして、いちどでも年上の兄弟がほしいとおもったことがあるはずです」
「ねぇよ、そんなの想像できねぇだろ」
燐は血の上ったあたまで、素直に悪魔の言葉を聞き入れた。
「そうでしょうか」アマイモンはぼんやりと爪を噛んだ 「信頼して、絶対的に年上で、頼ったり、甘えたり、あなたがつらいと思うときにたすけてくれる、 そういった身近な存在がほしいと思ったことがあなたにはあるでしょう」
 金色の両眼がぐるりと燐の青色の目を見つめる。おおいにからっぽで、しかしなにかすべてを見透かすような、気味の悪い眼球であった。 燐は目をそらすことがきない、と感じた。アマイモンはなおも続ける。
「無償の庇護、あなたがその数時間あとに生まれてきただけの弟にするようなかぎりない愛情をあなたは本能的にいつも、つねに、 じょうじ、求めているのでしょう。あなたの抱えきれない問題を欠陥をすべて曝け出せる、そんなものを欲しているのでしょう」
 いつもの、その平坦な声がわずかばかしゆるうく、あまくゆがむ。

「ボクはそういった存在になることができます」
あなたが望むのであれば。

じつに容易に、とささやくような声色はしかし、句点を待たずに派手な銃声にかき消されて曖昧模糊な振動へとなり下がった。 遅れて、三発分の薬莢がフローリングに落ちる。アマイモンは右肩に空いた三つの穴を無感動に眺めて、ふうん、 と果てなく退屈そうに窒素を吐いた。

「兄さんは悪魔なんだから悪魔の言葉なんかに惑わされないでよ」

 雪男はしゃべり終わらないうちに、未だ、ゆっくりと流血する肩口を眺めている悪魔へと二丁の自動拳銃を向け、そして、 トリガーを引いた。薬莢が跳ねる。
 アマイモンはようやっとスティールの机を蹴って、跳躍、 天井すれすれのところで一回転して落下の速度そのままに尖った踵を雪男へと振り落す。雪男は横転し回避、 一拍遅れて悪魔の踵が決して小さくない穴を木目の床に穿った。雪男は、転がりながらもトリガーから指をはなさず弾幕を張る。 弾丸の直撃を受けているのにもかかわらず大して痛そうな顔ひとつしない王様にちょっと気勢をそがれつつも、床を蹴って接近、 そのまま右手の自動銃のトリガーガードに指をひっかけて銃身をくるりと半回転、バレルに握りかえ、 グリップをやや大きく悪魔の左側頭部に向けて振りかぶる。頭をかがめて軽々と回避するアマイモンの鼻先を待ち構えていた雪男の右膝が強襲、 とっさにのけぞってバランスを崩した悪魔の頭頂部へグリップを垂直に振り下ろす。 ごつ、という骨とプラスチックが擦れる嫌な感覚を手中に、雪男は裸足の左爪先で白く不健康に骨ばった喉元を蹴りあげた。 けふ、と空気の塊と透明な唾液がアマイモンの口から洩れる。そのまま後方へと傾きかける細い体躯に雪男は少しだけ、 張りつめていた気をゆるめた。
 その緩めた一瞬、
 のけぞったアマイモンの上体が何の反動にすら頼らず、 背筋だけでぐにゃりと持ち上がった。一瞬、そのきらきらと光る金色の目に射すくめられた雪男は自分はもうこのまま目線をそらすことができないという錯覚を脳裏にかんじた。 ひどく尖った黒色の爪がぬっとひらめいて、いまだ喉元から引ききらない双子の弟の左足首をひたりと掴む。 雪男はいけない、だとか、まずい、だとか考えるよりもまず先に、その掌の指先の死んだ人のような冷たさにぞわり、 とひどい生理的な嫌悪感を覚えた。そしてしくじったと思考する暇もなく、その人間外めいた馬鹿げた腕力でもって文字通りぐるりぐるりと二回転ばかり中空を振り回され、 振り回されたかとおもったらそれらの五指はぱっとあっけなく雪男の足首から離れ、支えを失った雪男は、自然、 慣性にしたがってびゅんと漆喰の壁面へと叩き付けら、れ、る寸でのところで事態に右往左往するだけであった双子の兄の両の腕に抱き留められた。
 その兄は結構な速さで飛んできた弟ごと壁面に激突した。ごは、と燐の口からは先ほどのアマイモンのそれよりもいくぶん多量の空気が吐き出された。

「これがいわゆる」アマイモンは平然と肩をこきこきとならす「兄弟喧嘩というやつでしょうか」

 雪男の眼鏡がからりと落ちる。はっきりと青筋の浮いたこめかみには鬼気迫る激情が漂っていた。
「てめえふざけたこと抜かしてんじゃねえよ虚無界におくり帰すぞこら」
 いかにも完璧にぷっつんしてしまった弟を眼前に、すっかり酔いのような感覚から醒めてしまった燐は怒るタイミングを 完全に逸してしまって、どーしたもんかーと遠い目をした。
遠い目の先のアマイモンは折り重なって各々たいへんな面持ちの双子など目にもくれず、 のびのびと飴の包装を破っている。なるほど兄弟と考えればこれらの暇つぶしも兄弟喧嘩として正当化され得ます、 などとひとくまじめな顔してつぶやきながら。





[悪魔はこのように囁く]

11.07.05