アマイモンが、暇ですこのままでは死にます、とつぶやいたきり付属図書館に籠って 文字通り不眠不休で本を読み漁りだしたのはおおむねひと月前のことである。


 最初の一週間は興味本位で何を読んでるのかと逐一問いかけもしたメフィストではあった。
 まず初日は絵本を読んでいた。エリック・カールのぎらぎらしたあおむしを飽きもせず眺めては、 このチーズはおいしそうですだとかそういったことをぷつぷつとつぶやいていて、なかなかかわいらしいものだと メフィストは久方ぶりに弟の内に癒しを見出したものであった。 その次の日には乱歩だとかドイルだとかのシリーズものをぱらぱらめくってはどうにも解せぬと顔をしかめていた。 その次の日には漱石やらシェイクスピアやら藤村やらチェーホフやらの全集だとかを貪るように読み出し、そのまた次の日に、 カラマーゾフの兄弟だとか宇治拾遺物語だとかアンナ・カレーニナだとかを手にとり出し、雲行きの怪しさを感じるメフィストを置いて、 結局、次の一週間が始まるころには、山海経だとか古事記だとか神曲だとかをもそもそと長椅子に丸まって読んでいる次第であった。
 そこまでくるとメフィストには、口をつぐみ、早々にこの嵐が去ってゆくことを信じてもいないかみさまに祈ることしかできない。
 もともともそもそももなくアマイモンは正真正銘の悪魔であるからとくに食べたり飲んだり寝たりせずとも死ぬことのないため、 昼間は図書館、夜は屋敷内のどこかしらで、日がな一日、それこそ24時間ずうっと黒色の明朝体を目で追っている。 連日、おなかがすきましただとか、散歩に行きたいですだとか、お風呂に入りましょうだとか、 果ては一緒に寝ましょうそうしましょうだとか言って寝室にまで押し入ってきたものであったが、 今ではノックの心許なげな音を聞かなくなって久しい。もちろん仕事はそれ以前の比ではない速度で片付くのではあるけれども。 けれども、とメフィストは手中で万年筆を遊ばせる。静かな理事長室というやつは弟がこちら側来る前に戻ったかのような案配で、 メフィストをどこか落ち着かなくさせた。


 いま、現在その弟はじつに久方ぶりに理事長室の長椅子に腹ばいになって、褪せた色合いの岩波文庫を読んでいた。 しかしながら、本を歩き読みしながら無言で入室し、メフィストに目線をやることもなくそのまま長椅子に寝転がって 今の状態に至るあたり、弟の空っぽの脳みそのなかには、長椅子と空調、という二語の要因しか存在していないに違いあるまいと メフィストは側頭部に頭痛を覚えた。ぼんやりと、弟を熟読せしめる文庫の背表紙を見ると、禅の思想、とあり、メフィストは、 このままではどのみちこの弟は死んでしまうのではないかというような焦燥に駆られ、そしてその拍子に思わず声をかけてしまった。アマイモンよ、と。
「アマイモンよ」じつに一週間と少しぶりの兄の声に、はいなんでしょう、と弟はごく平然として顔も上げずにこたえた。 憔悴もしていなければ溌剌ともしていない。メフィストはくじけずに続ける「それは読んでいておもしろいのか」
 言ったそばから答えが知れて、メフィストは我ながら愚問であったかと遠い目をした。 案の定アマイモンはふーん、と興味もなさそうに息を吐いた。
「まったく」金色の目玉はひたすら文字を追う「しかし何もすることがないよりはいくぶんましです」
 だったら、とメフィストはいくぶんうなだれた。だったら。
「ほかになにかすることを探したらよいのではないか」
読書なんかじゃあなくてもっと健康的な、たとえば、と例をいくつか提示しようとやおら回転を始めたメフィストの脳裏には もちあがる例え話ば数多くあれど、そのほとんどはこの弟の性格と特質をかんがみると否定されるべくして否定されるものばかりで、 結局、3秒ほどのちにメフィストの脳みそは自転を打ち切った。
 なおも頁を追う目線を休めぬ弟はいつも以上に心此処に非ずの体で兄の放棄した思考を気まぐれに拾った。ぼんやり声で。
「ほかに、と兄上はいいますが」細長い指が頁をめくる 「そもそも兄上はボクがひとりきりで外出するのを快しとしないではありませんか。それは物質界を悪魔の王様が 堂々と闊歩するのはあまり図的によろしくないからだとか、それ以前にボクがものとかひととかをよく壊すからだっていうことは、 たいへん理不尽なことではありますが、まあボクもまま自覚するところでありますのでこの際はなにも言いませんが、」
 そこでアマイモンはようやっと目線を活字の羅列からメフィストに移した。金色の光彩が窓からの日差しをうけてきらきらと輝く。
「兄上は忙しくてボクに構っていられない。ボクは物質界にも人間にもさして興味がない。ボクは物質界に兄上以外の知り合いがいない。ボクはほんの短い間しか外に出られない。屋敷内外のものは壊してはいけない。人間を殺してはいけない。畜生を生で食べてはいけない。野菜は食べないといけない。ボクに与えられたものは鍵と食べ物と膨大な時間と義務とベヒモスだけ」 アマイモンはきしきしと爪を噛んだ「たいくつは猫だって殺してしまうんですよ、兄上」
 アマイモンはしばし黙ってメフィストのみどり色した目をじいっと見つめ、それから再び本へと目線を戻した。 このなんとも哀れっぽい伏目と陰った睫毛とを目の当たりにし、いかに悪魔といえどどちらかと言えば人間よりのメフィストの 胸中には同情と罪悪感めいた感情がふつふつとわきあがった。
 たしかに、メフィストがアマイモンと同じ立場であったらひと月どころか半日だって耐えられぬだろう。
「わかった」メフィストは右手の万年筆を執務机に置いた「今、何かしたいことがあればいいなさい」
 どうぞ、ご自由に。とメフィストが両手を広げるゼスチャーをとると、アアマイモンは無表情に文庫をぱたんと畳んで、 大股でカーペットを進み執務机を土足で踏みしめ、そうして兄の広く痩せぎすな懐にすっぽりと収まった。 それから、ごろごろと喉をならしてあにうえあにうえと小さく反芻した。

「あにうえ、ボクはわざわざ本を読みに物質界に来たわけじゃあないのです」
「それはそうだ」
「人間の考えていることなど理解できませんし、知りたくもないのです」
「承知している」
「いとおしいと言ったそばから首が欲しいだなんていう、すきできらい、うれしいのに泣くだなんて情緒不安定です」
「そうかもしれないな」
「愛と恋との間に差異なんてありません、しまいには妖怪と幽霊とは別物だとかさえ言い出す、全部悪魔でいいじゃないですか」
「たしかにな」
「赤だろうが黒だろうが罪だろうが罰だろうがボクには関係ないのです」
「もっともだ」
「ねえ、あにうえ」
「なんだ」
「ボクは飼殺されるためにあにうえのそばにいるわけではないのです」

 ねえあにうえ。思わずに、きゅうと抱きしめた体躯はまさに骨と皮しか感じられぬぎすぎすそのもので、 メフィストはどうにも胸苦しく、ぽんと軽い音をたててネイビーブルーの棒付き飴を取り出して、あにうえあにうえとなおも譫言のようにつぶやき続ける弟のちいさい口に押しこめた。





[プリーズギブミーサムアフェクション、ライカペーパー]

11.07.13