フェレス卿の眠たげな半開きの眼前で今まさに二人の若く美しい男女がそっと手を取りあいお互いがお互いのくっきりとした黒い瞳を見つめ、 鼻と鼻が触れ合わんとする距離感でごくちいさな声量でもって、あいしてる、と囁きあっていた。 まず男優がちいさくしかしはっきりとした声色で、そのあとに女優がほとんどかすれたようなあやういの声量で。 卿の眠気が限界に達するのとその一組の男女のくちびるが触れ合わないぎりぎりの瞬間がまさにぴたりと一致して、 その男女の間にこれから起こりうるであろうめくるめくラブ・ロマンスのあれこれはメフィストの疲労気味の指先がかちりと押した リモコンの△ボタンによってきらびやかなバラエティ番組の司会者のしまりのない笑顔へと切り替わり、 生真面目なニュース・キャスターの沈鬱めいた顔に切り替わり、海鮮丼へと箸を伸ばす太った男の横顔へと切り替わった後ぶつり、 と暗転した。 「あにうえ」 弟の半開きの目がちらりとこちら向いた。続けて、もうお休みでしょうか、と質問のような断定のようなともすれば独白のような如何せん コミュニケィションの意思が大いに稀薄なつぶやき。一人掛けの長椅子に体育座りで真っ暗になった液晶画面を見るともなしに眺めつつ。 「いいや、」メフィストはこの後片づけなければならない仕事を脳みその中でずらり列挙して、そしてひっそりため息をつく「続きが気になるのなら付けてもかまわないが」 そういってテレビ画面を指差し、弟のほうを見やると呆けたような顔(しかし一瞥しただけでは何時もの馬鹿面となんら大差はない)と行き会った。 「なんだ、見ていたのでは?」 「視界には入れていました」 兄の嫌そうな顔を見て、いいえでもあらすじはしかと覚えています、 などといってこの45分強の間に映し出さたドラマティックな展開をこれでもかというほどに平坦にだいたい200字程度の日本語でもってつらつらとかいつまんで話してみせた。 「このような映像作品が平日の21時、所謂ゴールデンタイムに全国放送でもって国民に放映されるということはそれなりの需要があるということなのですよね。ニュース番組や教育的放送より優先的に放送されるということはそれ相応の意義があるということですよね。意味不明ですね、難解です、不可解です」 「まったくお前はすぐそうやって思考を放棄するのだからいけない。人間の世の中はね、すべては愛で回っているんですよ、愛と情です、愛情です」 それはそれで大いなる思考放棄であるということはきれいに棚に上げてメフィストはびしりと腑抜けたお顔の弟の鼻先に細くて長い人差し指を突きつけた。弟の目線は斜め上方をただよう。 「アイ・ジョー?」 そのピリオドは不要である。メフィストは、あ・い・じょ・う、とうんざり正しいジャパニーズ・プロナンスエィションを披露してそのうんざりの勢いそのままに復唱までさせた。愛情、ときっちり発音した弟にうんうんと満足などもした。弟はしばらく焦点の合わぬ瞳孔で装飾過多なシャンデリアをぼうっと眺めてからあーと小さく頷いて、人間特有の漠然とした庇護欲だとか所有欲に関する感情作用のことですねといまいち抽象的な理解を提示した。兄の釈然としないような(つまるところいつも通りの)しかめっ面に弟はおや、とわざとらしく首を傾いでみせて、メフィストの与えたパステルイエローの携帯端末を取り出し、ぱちぱちとしばらく何事か操作する。メフィストがよっぽどなにかお叱りの言葉とともに拳の一つでもくれてやろうかと考案しだしたあたりで、アマイモンは、目線は端末の液晶のまま、にわかに抑揚のない声でつらつらとした文章を読み上げた。あい・じょー、といった具合に。 「@相手に対して向ける愛の気持ち、深く愛するあたたかな心、親の愛情、愛情を注ぐ。A異性を恋い慕う感情、愛情を抱く」ぱちりと携帯端末を折りたたむ「よくわかりませんねぇ」 とくにあたたかなこころというやつはなんなのでしょうねえ目に見えぬ手の触れられぬものに温度もなにもございませんあるいはこころとは心の臓のことを指しているのでしょうかそれでは深くとはなんのことをいっているのでしょうか奥行ですか心臓の奥行ですか、 などとひとしきり口の中でもごもごとつぶやいたきり黙ってしまった。 「おまえはお脳が虚数域なのだから頭で理解しようとしてもどうしようもないだろうに」「もっとこう、いつものように感覚的にいけ。あるいは人間になったつもりで」 「それこそ無理なお話です、ボクは人間じゃあありません」 「だからつもりだと言っているだろうに、それにそもそも私たちは人間によって生み出されたものなのだからあながち理解不能な領域でもないはずだ」 「いえいえボクには関係のない事柄ですので」 ですので、この理解の仕方にどのような問題がございましょうか、など生意気に反駁さえしてみせた。 「わからんやつだなあ」 「ええ、そのようなこと、関心いたしませんし存じ上げません」 そのようなこと、に殊更にアクセントを置いてしゃべる弟にメフィスト卿の頭蓋の内の華奢な歯車たちはかちんと小さな不協和音をたてて噛みあわせをずらした。 「お前はなにもかにも知らぬ存ぜぬ無関心」お前の頭蓋には豆腐かバターが詰まっているにちがいあるまい!「少しは柔軟にものごとを理解する努力くらいしてみたらどうなのだ」 青緑にきらきらとする光彩をきゅうと狭めて、アマイモンは右方向へ若干首を傾いだ。 「兄上にだってわからないことはございましょう」アマイモンは上着のポケットからビタミンイエローの飴玉を取り出し口に含んだ「兄上だってあいじょーなんてものがなんなのかご存じないのでしょう」 ボクらは悪魔であって神様じゃあありません。ごく囁くように呟いて、弟は歯の形にひん曲がった黒色の爪先をちろりと舐めた。それは無論でしょうとメフィストは辛抱強く応対して、皮手袋越しの人差し指で樫の机をトントントンと叩く。 「そういうことを言っているのではなく、」「お前のものの考え方を非難しているのだよ、私は」 「ええ、それは存じております」 それは痛いところであるので話題をそらしたく思いました、などと生意気にのたまって、「ではこういうのはどうでしょう」と右の小指をぴっとたてた。 「人間が内心思っていることなどボクたち悪魔にはわかりませんし、わからないことは模倣しようもありません。ですので視点を変えまして実際その愛情とやらによって具体的にどのような行動が引き起こされるのかを考えて、そこから愛情とやらの輪郭を明らかにしてゆくのがよろしいのではなかろうかと」 おもうのですが。アマイモンはどうでせう!と小さく胸を張って見せた。他方メフィストはなんとも煮え切らない顔をしてうーんと頬を掻いた。 「具体的にとったら」大いに歯切れ悪く「ハグしたりキスしたりセックスしたり、つまり、」 まあいろいろだ。と視線を明後日の方向へと飛ばした。アマイモンはふうむと気のない鼻息で一応といった具合に相槌をうった。なるほどわかった大人ってやつはと言わんばかりであったが咎めるにはこちらの分があまりに悪いことをメフィストはしっていたので自粛した。 このような話にも飽きた、と言わんばかりにアマイモンはベヒモス、と自分のペットの名前を読んだ。ほとんど間をおかずにぺったぺたと寄ってきた子鬼がぐるると唸って弟のきちりとたたまれた膝もとにぺたりと乗っかった。脳裏がぴりりとして、メフィストはきゅうと顎をひいた。 「たとえば」メフィストはだらりと弛緩した口元から唾液をたらした子鬼を忌々しげに指差した「お前がそのけがらわしい子鬼に対して抱いている情操。そのけだものがかわいいくて庇護したいのだろう。そいつが所謂人間のいう愛情に近い何かではないか」 弟はちらりとその醜い子鬼を眺めて、ついでのように頭だか背中だかをさすってやった。 「なるほど」無表情「では悪魔にも愛なるものが存在しうるのですね」 などといったそばからしかし、うむ、と首をひねって、はて、でもボクはヘビモスについてとりわけ何か深い感情を抱いているわけではないような気もします、と子鬼のぎょろりとした瞳を見つめ、おもむろに膝もとからべしゃりと床に突き落とした。子鬼はぐぇえといかにも下品に呻いて心なしかしょんぼりと椅子の脚元にうずくまった。あっけにとられてしばし黙る兄を尻目に、アマイモンはふうむと何を考えているのか皆目見当もつかない顔して突然の理不尽ににわたつく子鬼を見下ろして、その細く痩せ細った脚を床へと伸ばし、尖った靴先で小さくステップを踏んでみせた。タッタカタカタといった具合に。それらの不揃いな振動に合わせてチェストの番がカッチカチカチと音を立てる。タッタカタカタ。メフィストはいったん右斜め上方を見るともなしに眺めて、それからブーツのヒールで心なしか強めに床タイルを蹴った。メフィスト卿の御足からタイル四枚分程度離れたあたりに丸まっていた子鬼がびくりとゆれて、それからやおらぶさいくな顔をしかめてぐるるとうなった。 アマイモンは口の中の飴玉を左奥歯で噛み砕き、不明瞭な声でベヒモス、とぐずる子鬼を宥めた。 いつの間にやら堂々巡りを繰り返す思考にしかめっ面をせざるをえないメフィストにたいして弟は、もしかしておなかがいたいのですかなどと見当違いなことを尋ねてくる。痛いのはどちらかといえば頭のほうであった。メフィスト自身もなぜに自分がこれほどまでに苛々と気をもんでいるのかよくわからなくなってきた。 それでは、とアマイモンはやおらどうにも仕方ないなあと言わんばかりに切り出した。それでは仮に僕のこの薄い奥行のない胸中に生じたなにか感情のようなものが愛情と呼ばれるもの一般であったとして。アマイモンはすっくと立ち上がりカッカと音をたてて兄の前に仁王立ちした。「それでは兄上にも分けて差し上げましょう」ととりわけ興味なさそうに弟は兄の背中に両の腕を回して骨っぽい首筋にその青白いかんばせを埋めてみせた。弟の蝋でできた人形のような頬がひやりと動脈を冷やした。 「このようなかんじでしょうか」「このようなかんじがあいじょうでしょうか」 弟はちいさく声をひそめて兄の耳元にささやきかけた。 そこでようやっとそれはメフィスト自身にも雲をつかむようなよくわからないことであってきっと永遠の時が立ったとしてもいっこうに理解しがたいものであるのだ、と得心がいって、さあてなあ、とじつに気の抜け切った声でつぶやいた。そうしてメフィストは安心してゆっくりと目を閉じだ。 [ 愛がすべて!]
11.11.21 |