それはまるで乾ききった、しらじらとした流木でも折れるような、ぽきり、というじつに明快な音であった。
メフィストがなにごとかと上げた青くすきとおる半眼の目線の先には、がくりとモザイクタイルに膝をついて呆けた顔で自分の右足を眺める弟がいて、その右足首は一目見てへんてこな角度に折れ曲がっていることが確認できた。 折れている。まっとうに折れている。とメフィストは己が胸中で丁寧に二度つぶやいた。

「兄上」
「なんだ」
「たてません」
 少しくらい苦しそうな顔でもしたらよいのに、といかにも悪魔らしいことをメフィストは思った。





 悪魔は虚無界、人間は物質界、という区分・棲み分けが両者の絶対的な決まりごとであり、お互いがお互いの領域に直接干渉することは決してできない。そもそも悪魔という思念体は物質界の118つの元素の外にある概念であるからして、 悪魔が物質界で存在するためにはまず物質界の物質で構成された「入れ物」が必要なのである。それが炭素生物であれ無機質であれ知的生命体であれ畜生であれ。 それらのハードウェアに自分自身をインストールすることでようやっと悪魔は物質界につなぎとめられる。
 ただ、入れ物本来の容量と中身のメモリが釣り合っていなければ不都合もまま生じうる。たとえば、極端な話、悪魔のおおもと、偉大なる御父上さまなどが一般人に憑依しようものならば、ものの一秒だって持たずにその肉体は崩壊してしまうわけである。
 さて何が起きたのか。メフィストは長椅子にぐたりとのびる弟を見やった。

「その入れ物の許容オーバー。端的にいうと」
「ハイ。わかりません。それと僕の足首が前触れなしに粉々になってしまったこととの間にどのような関係があるというのですか」
 この愚かしい弟も愚かしいからといってまったくの低能といえばそうではなく、これでいちおう八侯王の一人であったりして、悪魔としての階級はなかなかであったりして、などということをメフィストはついつい忘れがちである。
 一見、悪魔に憑依された肉体は何か魔法にでもかかったかのように、人間の域を超えて、頑強になるように思われる。 たしかにこのアマイモンにしてもほかの悪魔たちにしても、並みの人間であれば再起不能である傷を受けてもなんら問題なく生きているし 、身体能力も文字通り人外のそれである。しかしながら、だからといって憑りつかれた入れ物がそのまま悪魔になるのかといえばそのようなことはまったくなく、 物質界の元素、お約束ごとはそのままにあり続けるわけであるから、人間外の働きを求め続ければそう遠くない未来に限界が訪れる、というのは自明の理である。

「それで」
「おまえの肉体は今、死を迎えつつある」
「死、」
「つまり、」溜息「壊れるのだ」


 メフィスト自体もなかなかどうして大物の悪魔であるから、一般の悪魔と比べると憑依に耐えうる入れ物の個体数は限られているし、その寿命も決して長いものではない。 であるから身体が自壊し始める前にこまめに肉体を交換するよう心掛けていたし人間の域を超えるオーバーワークをした時などはメンテナンスに気を遣うなどもした。
「これは私のミスだ」
 メフィストは頭を抱える。ふつう悪魔は自分の入れ物の管理は自分で行うものである。しかしながらこの正十字学園という特殊な環境、アマイモンの階級、そして自己管理という単語などお脳の片隅にも印字されていないであろうすっとぼけた弟の性格、 それらを考慮すれば暫定保護者であるメフィスト自身が気を配ってやらなければならなかったことは誰の目にも明らかである。
「だいたいお前は像か熊みたいに馬鹿食いするわ末の弟と馬鹿に派手な喧嘩はするわ地面揺らしてみるわ高いところから飛び降りてみるわ、そりゃあおまえ、身体の寿命も早まりもする」
「そんなこと言われましたって」アマモンはがらんどうの双眸で折れた脚を見やる「兄上だって悪魔の力が必要だからボクのこと呼んだのでしょう」
そうして無表情にそのえらくとがった爪をカリカリカリと噛み始めた。
「ものごとには節度というものが必要なのだ」
とにかく!と、メフィストは四の五の文句を垂れようと口を開く弟の眼前に指を突きつけ黙らせる。
「その身体はこの後ものの数日で機能停止する。新しい入れ物を手配するまでお前は絶対安静」といっても、とメフィストは困ったように眉尻を下げる「この調子では動こうと思っても動けないだろうけれども」





「その、新しい入れ物の手配とやらにはどのくらいの時間がかかるのでしょうか」
 アマイモンは折れ曲がった足首が腫れていくさまを眺めながら尋ねた。
「さて、わからない」
「はて」カリカリカリカリカリ「わからないとは」
「言葉通りだ」メフィストはとんとんとしわの寄った眉間をたたく「お前みたいなのでもいちおう悪魔の王様だろう。その入れ物となるとどうしても分母が少ない」
 おまけにここはどこだ、わたしはだれだ、とメフィストは明後日の方向をみやる。アマイモンはふうんと首を傾ぐ。
「その辺の祓魔師をちょっとばかし、がばーっと襲っちゃえばいいのでは」
「お前はまず人の話を聞け」メフィストはもう一度溜息「それができれば私の人生イージーモードすぎるだろう」





 そうして過ぎ行く、二日三日後。

 調子は、と尋ねる兄の方へ億劫そうに視線をやった。
「咳をするたびに肋骨が一本折れますし」ほとんど、空気と空気がこすれるような声であった「視力が著しく低下しています」
 兄上のお顔もよく見えません白とピンクの奇怪な物体にしか見えませんなどと悪意のある台詞をはいた。ついでのように真っ赤な血もはいた。
「悪魔に縋る人間の気持ちがわかるような気がします」
「それは営業につながるいい勉強になったな」さて、「今夜が峠だろうか」
「新しい入れ物は?」
「早ければ明日の晩、遅くとも明後日の昼、といったところだ」
「もちますかねえ」
 さてね、とメフィストは寝台脇の安楽椅子に腰かけた。弟の体はまともな神経の人間であれば目を覆いたくなるような有様であったがメフィストは人間でもまともな神経の持ち主でもなかったため、まじまじと観察をした。 常日頃から青白く不健康な顔色はもはや血の気という血の気がなく、紙のように白々としており、大きな目の下のどす黒いくまと、乾いたくちびるの際についた赤色の血以外の色味はみいだせない。 閉じたまぶたのしたの青色の瞳はきっと濁っているのだろうと思うとメフィストはどこか憂鬱に似た感慨を胸中にかんじた。胸の上で組まれた十の指は蝋でできた作り物と説明された方がまだ得心がいくような案配で、 ところどころ赤い斑のついたシーツの下に隠れた肉体もまた、そのような状態であると考えられた。
「モルヒネでも?」
「いちいち痛いのは面倒なので痛覚を遮断しています」ご心配なく、とにべもない「しかしながら、これでは不便でしかたありません。一度虚無界へ帰って出直してきた方がいいような気がします」
しかしメフィストは渋る。
「それはそれで面倒なのだよ。お前ほどの悪魔をこの学園内にこっそりと召喚するのはそれでなかなか骨が折れる」
「実際に、今現在ボクの骨はぽきぽきと折れ続けています」
「甘いものばかり食べていたからだ、骨粗鬆症、因果応報、我慢しろ」
「兄上、今ほど兄上の全身の骨という骨をぼっきぼきにしてやりたいと思ったことはありません」
「思うだけなら無料だからかまわんよ」
 メフィストがそう空っとぼけると、弟の組まれていた指がぬるりとほどけ、左の爪先が兄の鼻先をゆらりかすめた。思わず掌で払うとぱきりと小枝を踏むような音をたてて弟の病んだ尺骨が砕けた。 半開きの青い目が恨めし気に日の光をゆらゆらと反射する。
「兄上もお人が悪い」
「いやはや、まるで砂糖菓子のような按配だ」
「カルシウムたっぷりですのでお子さんのご健康にお勧めです」
デビル・ジョーク、と心底つまらなさそうにうそぶく弟に心中にて、なるほどこれが精神汚染というやつかとメフィストはいらない納得をした。 同時に得も言われぬ憐みの感情に襲われて、メフィストは軽い眩暈を感じた。 この弟はお脳を腐らせいまにも死にかかっている、と。なによりもそのかわいそうな弟をそのかわいそうな状態にせしめているのがメフィスト卿それ自身だという事実にメフィストはくらくらとした。 卿は弟の石膏のように生気のない額を自身のいたく健常な右の手でなでた。
「今度は頭蓋を砕くおつもりで」
「一応言っておくがさっきのは事故だ」
「はて」ながい睫がわずかにゆれる「兄上はひどくたのしそうでいらっしゃるようでしたので」
 メフィストはたまらずふきだした、まさか、「なぜ私がおまえを楽にしようか」
「兄上もお人が悪い」
「さてね、おまえのことがいまだかつてなく愛しくかんぜらるるよ」
「デビル・ジョーク」
 アマイモンはふたたびしっかりと両のまぶたをおろし(そうすると本物の死人のようであった)魂の抜けるような長いながい溜息をついた。 それから、是非に復活後をお楽しみに、と消え入るような呪いを呟いて、も餓え死ぬ寸前の捨て犬のごとき咳と淡い血を吐きだして、それで、それっきり黙った。




[ ある悪魔の死 ]

12.05.24